江戸言葉について(序)
土曜日, 8月 28th, 2010年を取ったせいもあるのかもしれないけれど、なぜか少し前から落語をきちんと聴きたい、というふうに思うようになった。でも体系的に何かを知っているわけでもないので、手始めに、この二人をきちんと聴こう、と勝手に決めたのが、立川談志と、古今亭志ん朝。それでCDを買い求めてもう数十枚になる。 高座で落語を聴いた経験はあんまりなくて、高校生の頃に、上方落語の重鎮、いまや人間国宝(だったっけ?)の桂米朝、枝雀。すんでいた地元に出来た新しいホールで親子会があった(枝雀も自殺してしまったね。合掌)。 それから覚えているところでは桂文珍と立川談志の会。円楽(先代)も聴いたことあったな。 ほかにも新宿末広亭には何度か行ったけど、ひいきの人目当てで行ったわけではないので、そのときに誰が出ていたのかは忘れてしまった・・・。 僕の亡父はろくに趣味もなかったが、落語は好きで当時カセットテープで志ん生や園朝を聞いていた。 志ん朝は、その志ん生の息子である、ということは父に聞いたかどうかは忘れたが何となく知っていた。でも彼は僕にとって、最初、落語家というよりは粋な趣味人として認識した記憶がある。カメラ、自動車、そば、などなど。大人の遊び、趣味には長けていたみたいだ。 もともと落語が何となく好きだったのは、江戸言葉をかっこよく使って、粋な生き方をしているなあ、という獏とした憧れがあったからで、その意味では上方の落語にはあんまり興味もないし、新作落語にもあんまり興味も無い(春風亭昇太や、柳屋喬太郎はたしかに面白いと思うけど)。 立川談志師匠はまだご存命だが、のどのがんやら何やらで数年は体調不良。相変わらず落語や、社会に対する態度も”不良”で健在ではあるのだが、高座を聴くのはもうなかなか厳しい。僕が数年前に行った高座でも、ネタを途中でどこまでやったか忘れちゃって、「え、俺どこまで話したっけ?こりゃ困った。じゃ、最初からも一回やるよ」といって、最初からまたやり直したということがあった。 前半部分を2回聴けたのはラッキーというか、いかにも談志っぽくて面白いとかあるかもしれないけれど、全盛を知っているコアなファンからしたら、きっとこういうエピソードで喜んでいるのはまだまだ、なんだろうな、と想像する。 で、ようやく志ん朝師匠の高座のネタの話になるのだが、ちょっと息切れ・・・。 このネタは改めて書こうと思う。 僕が好きなのは、遊郭がからむ話で、「明烏」「お直し」「お見立て」なんかなのだが、ネタを問わず、やっぱりその口上というか、たたみかけるような語り口はもうほんとに絶品と思う。会話の中で、ちょっと言葉に詰まるところや、「噛む」ところとかまで演出されていて、まあすごい。覚えて話している、という感じじゃない、体の中で生きている。 で、江戸言葉で僕がかっこいいなあ、と思うのは、たとえば長屋ってのは一部屋か二部屋、空いているほうが住人にとってはいいそうで、満室だと家主のほうが強気に出てしまって困る、というときに、「家主が反身(そりみ)になっていけねえ」みたいに使うんですな。 この「反身(そりみ)」という表現、しびれますね~。威張っているとかじゃなくて、反身(そりみ)。 子どもには江戸弁を話させたい。