映画と絵本の小部屋

映画と本をこよなく愛するお父さんのブログ

Archive for 11月, 2010

谷川 俊太郎 さん―偉大な巨人

金曜日, 11月 26th, 2010

僕にとって最近の谷川俊太郎 さんは、まず、絵本作家として存在しているのだけど、子どもがうまれる前までは、現在の最高の詩人としてその作品を読んできた。 たとえば『二十億光年の孤独』や『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』なんかの作品は、角川文庫で昔出ていて(今もあるかもしれないけど)、手軽に持ち歩けて、何度も読めて、大変にコストパフォーマンスのよい(!?)本でとてもよかった。安かったので、当時海外に行く人にプレゼントとしてあげたこともあった。 絵本を子どもに買ってあげるとき、僕はまず割と自分の好みでそれを買う。オススメされているものの中で、自分の好きな作家、好きな絵、なんかを基準にしてまず選んじゃう。そういう意味では、谷川俊太郎さんを筆頭に、堀内誠一さん、和田誠さん、山下洋輔さんといった”そもそも好きだった人たち”が、絵本というフィールドで活躍をされているのは大変ありがたく、むしろ自分のものとしてこれらを買い求めたりもするくらいだ。 我が家にはたとえば「おならうた」という谷川さんの絵本があるけど、これなんか、たぶん奥さんからしたら、谷川さんなので許していると思うな(もし、これの作者が僕だったら、怒られてる)。 「ことばあそびうた」なんか特にそう思うけど、言葉をこねくりまわして、その存在の根源にまでつきつめていろいろいじっていくことで、こういうものができあがっていくのだけど、それはなんというか子どもが言葉を獲得していく過程の”逆のルート”をたどって、子どもの原始の状況まで戻っていくような作業をしているのではないか、という感じがしている。子どもが言い間違えたり、発話する音を楽しんだりする、そういうひとつの言葉がまだ「意味」を獲得する前の段階、にまで立ち戻って、その言葉そのものの音の響き、もっている力みたいなもので表現しているところが、我々大人にははっとさせられるところでもあり、同時に子どもがそれを受け入れることができるところ、なんじゃないかなあ。 そういう意味では、そもそも詩人のみなさんには、絵本作家=子どもに言葉を伝える、という素養が備わっているのかもしれませんが、谷川俊太郎さんが特に優れているのはこれを意識して/徹底してやっていることではないだろうか。 少し前に、NHKの週刊ブックレビューで、谷川俊太郎さんが出ていた回があったのですが、それは本当に面白かった。 ご本人の朗読があった。その中で印象に残ったもの。 「私の書くことばには値段がつくことがある」 これは「自己紹介」という詩の一節ですが、うーん、どうです、すごいでしょ。僕はすごいと思った。「詩人とは何ぞや」 「私にとって睡眠は快楽のひとつです」 これも同じ詩からの一節ですが、これは僕もおんなじ。こんなところで共通点を見出してどうするんじゃ、という感じですが。

ディック・ブルーナの世界

月曜日, 11月 15th, 2010

つい先日、日本のあるメーカーがつくったキャラクターが、ディック・ブルーナ作のミッフィーに類似しているということで、本国のオランダを中心に数カ国で販売禁止となった、という報道があった。 その報道写真を見たところ、「似ている」といえなくもなかったが、正直、ミッフィーと区別がつくか、といわれたら、僕はつく、というくらいの差があるように思ったけど・・・。 ミッフィーは、少し前に、生誕55周年!ということで東京でも特別展示会があったりして、僕もでかけてきました。作者のディック・ブルーナさんのミッフィーを描いているところのビデオも会場で上映されていたりしたのだけど、アーティストの制作過程を見るのは、僕はものすごく好きなのでこれが一番面白かった。 あくまでもイメージですが、ミッフィーってコンピュータグラフィックですいすい描けそうな感じがするじゃないですか(しない?)。 でもディック・ブルーナさんは、きっちり手描きなんですよねー。そういうところに改めて感動。 ここで前にも触れたことがあるけれど、日本の誇るスーパー”オタク”アーティスト、村上隆さんの描くキャラクターも、CGかと思いきや手描きだったりして、カイカイキキの制作過程を見たことがあるけど、入ってすぐの新人は、紫をムラなく塗れるように、みたいなトレーニングをしていてそれはとても面白いものだった。 ペイントソフトでちゃっちゃっとできそうなものを、あえて手で描く。 なんでこういうことが僕にとって面白いと思うのか、はじつは僕にもよくわかってない。僕は別に人間礼賛=CGはダメ、と思っているわけじゃないしね。 ま、でもとにかくディック・ブルーナさんの手描きによるミッフィーちゃんが生まれてくる様、というのはとても面白いものでした。 我が家にも、ミッフィーの絵本はけっこうあって、福音館書店から出ている石井桃子訳の「うさこちゃんシリーズ」は子どもも大好き。僕はその中でも「うさこちゃんとどうぶつえん」がすごく好きなのだが、絵がかわいくて、しまうま、とかすごくいいけど、加えて石井桃子さんの訳による文章が本当にリズムよく進んでいくので読んでいても楽しい。 松居直さんの講演会&サイン会にいったとき、じつはその場で売っていた松居さんの本、絵本は全部もっていたので、サインをもらうために、”しかたなく”石井桃子さん訳のうさこちゃんのどれだったかを買って、それにサインをもらったことがある。そのときに、僕は恐れ多くも松居さんに、「翻訳がすばらしいですよね、リズムがあって」なんてエラソーなことを話したら、「石井さんの翻訳は、もう翻訳じゃないんですよね、原文無視で超訳なんですよ」って、あいかわらずの穏やかな口調で話してくださった。 オランダ語の原文を僕はあたったことがないし、仮にあたったとしても僕には読めないのだけど、あの名調子はもうほとんど石井桃子作!(訳ではなく)、ディック・ブルーナ絵ということらしいです。 余談ですが、うちの下の娘は、しまうまを見ると「しまうま?」といって首をかしげます。この感じ、「うさこちゃんとどうぶつえん」でうさこちゃんが「あのうまがしまうま?」と聞くところとすごくかぶるんですよねー。こういうとうちの奥さんは娘をうさこちゃん扱いして、といってすごく怒るのだけど、小さい子どもの、ああいう共通したかわいさ、っていうのをやっぱり石井さんはきっちり描いているように思うんです。なんだかディック・ブルーナの世界って書いておきながら、だいぶ横道にそれたけど。

またまた菊地成孔!

木曜日, 11月 11th, 2010

慶応大学での授業をまとめた「アフロ・ディズニー2」を読んでいて、とても刺激を受けた。一応読み終わったのですが、村上隆さんを招いて行われた授業のところが特におもしろかった。 村上隆(以降、敬称略)は、よく知られているようにルイ・ヴィトンとかとコラボするなど、いまや日本の美術界では世界的に一番有名だし、商業的な成功も収めている。この「商業的な成功」ということが、とても重要で、彼自身はそれをとても戦略的に実行していると思う。 「商業的成功」はいかになしうるか、ということの一端がこのアフロ・ディズニー2の大学講義の中では触れられていると思った。 余談になるが、グッチがトム・フォード、ヴィトンがマーク・ジェイコブスをディレクターとして採用している、ということが、「パリのモード界もアメリカにしてやられている」というふうに理解されていて、アメリカは、新自由主義の経済大国、というだけでなく、ファッション/モードでも世界を席巻していることになる。 こういうところ、ほんとうに面白い。ヨーロッパにはもっとがんばってもらわんといかんね。 で、村上隆は、マーク・ジェイコブス率いるヴィトンとコラボしたわけですが、その時のやり取りは、ここで簡単に言うと、「クライアントであるヴィトン=マークに徹底的に奉仕する」姿勢だったと話している。ここに彼が商業的に成功を収めている、ことの理由があるように思う。 一般的に言うと(ここで菊地成孔も指摘しているが)、現代美術界の寵児、村上隆がヴィトンをリードして新しい地平を開いた、みたいな感じがしているのだけど、全然そうではないこと。 村上隆に、ファッションの世界に「オタクカルチャー」を浸透させることで、アート×ファッションの新たな地平を開く、みたいな高邁な思想とリーダーシップがあったわけではないことは、僕に村上隆に対する失望を起こさせるということでは全然なくて、むしろ、その戦略性の徹底した高さに脱帽。 目的に対する戦略の実行、ということがきちんと連関されているからこそ、なんだねー。 なんだかうまく書ききれないので思いついたらまた補足します。

シンデレラっていろいろあるんだねー

木曜日, 11月 11th, 2010

シンデレラ、といわれて僕はすぐに、昔ディズニーでみたアニメ映画を思い出すのですが、ちょっと調べてみるといろいろあるんだね。 今、僕の家には、「はちかづきひめ」があって、よく子どもに読んであげているのですが、これも日本版シンデレラ。じつは僕の家には、シンデレラのほんもの(!?)はありません。 ここではからずも「ほんもの」と言ってしまったけれど、実際何がオリジナルストーリーなのか、というのはよくわからない。他の昔話系でも、世界に同じような構造、登場人物、得られる教訓?まで似ている話が存在していると聞いたことがあります。浦島太郎とか、そういうものですが。 ほんものとかオリジナルがあって、その情報を盗み、咀嚼し、解釈して、似た話を作る、というのを「盗作」というけれど、ここで起きている状態は、そういう話ではないのですよねー。 もちろん僕たちの知る、いわゆる「シンデレラ」には、シャルル・ペローさんという著名な著者はいるのだけれど、おそらくはこの方も「再話」という形で、伝えられている話を編集し、リライトして、きちんとした話に仕立て上げたのではないのかなあ。 ↑ と思って、ちょっと調べてみたところ、やはり、民間伝承の話をきちんとした形で整えた、と書いてあった(ウィキペディア)。 というわけで、やっぱり面白いのは人類があらゆる土地で、違う形でその文明を発展させてきたはず、なのに、同じような構造が世界のいたるところで伝承されてきている、という事実。なんだか人類学や構造主義の話になってきちゃいましたが・・・。 でもシンデレラが、世界共通に多くの人の心を捉えて離さないのは、お話の面白さとか、得られる教訓がよいとか、そういうこと以上に、人々が無意識下でもっている「人類共通の記憶」みたいなものに”触る”からではないでしょうか、なんてことを考えながら、今日も僕は「はちかづきひめ」を子どもに読んで聞かせております(なんて、ほんとは考えてないけど)。