映画と絵本の小部屋

映画と本をこよなく愛するお父さんのブログ

子どもと一緒に絵本を読む

by admin - 8月 28th, 2010

自分が本全般が好きなこともあって、子どもが生まれたときには絵本をいっぱい読もうと決めた。子どものため、を言い訳に、好きな作家の(絵)本をじゃんじゃん買っちゃおうという欲もある。

幸い僕の周りには絵本好きな人が多かったので、いろいろ紹介してもらえた。

絵本は、とても可能性のあるメディアだと思う。その証拠として、いわゆる絵本作家ではない方たちも、絵本を多く出版している。谷川俊太郎さん、堀内誠一さん、佐々木マキさん・・・。みんな僕は違うアプローチで彼らの作品を知り、ファンになり、そのあとで、絵本を出版していると知った。谷川さんはいわずもがなだが大詩人。堀内さんはananやpopeyeのアートディレクターとして僕はその名前を知った。佐々木マキさんは、いまやノーベル文学賞候補、村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の表紙の作家やガロの漫画家として。

おそらくこういう人たちも絵本の可能性を知り、遊びたくなったのだと思う。

今、僕が絵本選びで参考にしているのは、絵本ナビ。インターネットサイトなので、時間や場所を選ばずいろいろ調べることができてとても便利だ。編集長による谷川さんのインタビューも最近掲載されて、知らなかったことをいろいろ勉強できた。これを息子に買ってやろう!

江戸言葉について(序)

by admin - 8月 28th, 2010

年を取ったせいもあるのかもしれないけれど、なぜか少し前から落語をきちんと聴きたい、というふうに思うようになった。でも体系的に何かを知っているわけでもないので、手始めに、この二人をきちんと聴こう、と勝手に決めたのが、立川談志と、古今亭志ん朝。それでCDを買い求めてもう数十枚になる。

高座で落語を聴いた経験はあんまりなくて、高校生の頃に、上方落語の重鎮、いまや人間国宝(だったっけ?)の桂米朝、枝雀。すんでいた地元に出来た新しいホールで親子会があった(枝雀も自殺してしまったね。合掌)。

それから覚えているところでは桂文珍と立川談志の会。円楽(先代)も聴いたことあったな。

ほかにも新宿末広亭には何度か行ったけど、ひいきの人目当てで行ったわけではないので、そのときに誰が出ていたのかは忘れてしまった・・・。

僕の亡父はろくに趣味もなかったが、落語は好きで当時カセットテープで志ん生や園朝を聞いていた。

志ん朝は、その志ん生の息子である、ということは父に聞いたかどうかは忘れたが何となく知っていた。でも彼は僕にとって、最初、落語家というよりは粋な趣味人として認識した記憶がある。カメラ、自動車、そば、などなど。大人の遊び、趣味には長けていたみたいだ。

もともと落語が何となく好きだったのは、江戸言葉をかっこよく使って、粋な生き方をしているなあ、という獏とした憧れがあったからで、その意味では上方の落語にはあんまり興味もないし、新作落語にもあんまり興味も無い(春風亭昇太や、柳屋喬太郎はたしかに面白いと思うけど)。

立川談志師匠はまだご存命だが、のどのがんやら何やらで数年は体調不良。相変わらず落語や、社会に対する態度も”不良”で健在ではあるのだが、高座を聴くのはもうなかなか厳しい。僕が数年前に行った高座でも、ネタを途中でどこまでやったか忘れちゃって、「え、俺どこまで話したっけ?こりゃ困った。じゃ、最初からも一回やるよ」といって、最初からまたやり直したということがあった。

前半部分を2回聴けたのはラッキーというか、いかにも談志っぽくて面白いとかあるかもしれないけれど、全盛を知っているコアなファンからしたら、きっとこういうエピソードで喜んでいるのはまだまだ、なんだろうな、と想像する。

で、ようやく志ん朝師匠の高座のネタの話になるのだが、ちょっと息切れ・・・。

このネタは改めて書こうと思う。

僕が好きなのは、遊郭がからむ話で、「明烏」「お直し」「お見立て」なんかなのだが、ネタを問わず、やっぱりその口上というか、たたみかけるような語り口はもうほんとに絶品と思う。会話の中で、ちょっと言葉に詰まるところや、「噛む」ところとかまで演出されていて、まあすごい。覚えて話している、という感じじゃない、体の中で生きている。

で、江戸言葉で僕がかっこいいなあ、と思うのは、たとえば長屋ってのは一部屋か二部屋、空いているほうが住人にとってはいいそうで、満室だと家主のほうが強気に出てしまって困る、というときに、「家主が反身(そりみ)になっていけねえ」みたいに使うんですな。

この「反身(そりみ)」という表現、しびれますね~。威張っているとかじゃなくて、反身(そりみ)。

子どもには江戸弁を話させたい。

フリージャズとは何からの「フリー」なのか?

by admin - 8月 22nd, 2010

このタイトルかっこいいなあ、と自画自賛しそうですが、これは僕のオリジナルではなくて、菊地成孔・大谷能生さんの本『東京大学のアルバート・アイラー』からの引用(パクリ)です。

ここに今から書くことも自分の感想や思い出のほかに、少しでも理論とかキーワード的なことがあるとすれば基本的には全てこの本から得たものです。手元にその本をおいて書いているわけではないので、正確性に若干?のところもあり、引用の礼儀としては不十分かもしれませんが、この本と著者のお二人には大きな敬意をもっております。

僕がフリージャズを聴こうと思った理由は、今思い返すとこの3つくらいだったのではないかと下に整理してみます。

1)ジョン・コルトレーンの音楽をフォローしていたときに彼が「進化?」した形でフリージャズに傾倒したのでその流れでオーネット・コールマンやアルバート・アイラーという人の音楽もチェックしてみたというくらいの軽い流れ。

2)そのころはニューアカデミズムというものに洗礼を受けており、そこでのスターであった浅田彰さんも四方田犬彦さんもアルバート・アイラー論を書くなどしていて、これはなにやら崇高な思想がその後ろにありそうだ、と感じたから。

3)オーネット・コールマンはタイトルが「フリージャズ」という、そのまんまのアルバムを発表しているのですが、そのジャケットがアクションペインティングで有名なジャクソン・ポロックの絵によるものになっていて、こういう表現が2)で書いたような、何か崇高な思想がそこにはあるような思いがしたこと(←たんにかっこよさそうに見えた)。

でも、昔も今も、実はフリージャズにしびれたことは一度もなくて、コード進行も音階もめちゃくちゃに吹き続けるハチャメチャな音楽、という印象は変わっていないのです。なんだかファッションとしてはとてもかっこいいが、その実はよくわからん、と。

そういう思いを持ちながら最初に聞いてからかれこれ20年ほどいたわけですが、そのあとでこの本に出会い、「何からのフリーなのか」という、まさに自分でまったくわかっていなかった問いかけを見つけるのです。

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こう書いてきてすでに自分で飽きていますが、答えを言ってしまうと、要は、有名なバークレー音楽院というところがの創立者がビバップと呼ばれる黒人のジャズ音楽に理論的な背景を与えた(=バークレーメソッド)のですが、フリーとは、まさにこの理論からの「フリー」だった、ということらしい—–これでこの話の結論になっちゃうのですが、もう少しこの前段を書きます。

ジャズにはアドリブと呼ばれる演奏方法があって(日本語にもなっているんで想像できると思いますが)、僕はジャズを聴いていて、一人がアドリブに入ると、オリジナルの音楽のところからどこか遠くへいってしまうような感じがしていたんです。それでその人以外(=バンドメンバー)は、そういう行為をどういう風に受け止めているのか、ずっと謎だった。

アドリブをありていにいえば、「その場の思いつきで、思い浮かんだフレーズを自由に演奏する」ということと思っていて、であれば、ほかの人にはそれがどのような着地点を見出すのかわからないので、元の演奏にどう舞い戻ってくるのかをどう予想するのかわかんないんじゃないか、という疑問ですね。

着地点を見いだせるのは、高い感性をもち、多くの同じ時間を過ごし、音楽に対して同じ解釈・指向性をもつバンドメンバーなのだからではないか、という勝手な伝説を作ったりしていたんだね(もちろんこの要素はゼロではない、と思うけど)。

しかし、このアドリブの僕の理解は、どうやら間違っており、彼らは、ある一定の理論の枠の中で、「自由に羽ばたいている」ように見えたということではないか、と。

(このへんから僕の勝手な解釈入っていますので注意!)

なのでほかのメンバーもどのあたりで着地をするものかはおおむねにおいて理解ができ、元の演奏に戻るときの(心の)準備ができていた、ということみたいなんです。

この理論、っていうのが「バークレーメソッド」といわれるもので、これを学べば、自由な飛翔と思えるアドリブについても想像がつくようになる、らしい・・。

その意味で行くと、僕が想像した、、「「その場の思いつきで、思い浮かんだフレーズを自由に演奏する」ということと思っていて、であれば、ほかの人にはそれがどのような着地点を見出すのかわからないので、元の演奏にどう舞い戻ってくるのかをどう予想するのかわかんないんじゃないか」ということは、フリージャズについてはいえるかもしれない、です。

以上終わり。また書きたくなったら補足します。

人を触ることで鍛えられる筋肉について

by admin - 8月 20th, 2010

ユニクロが単独でスポンサーしている季刊雑誌「考える人」の最新号で、内田樹さんの対談が掲載されていてそれが(相変わらず)面白い。

今、所属する神戸女学院大学で振付家の方と一緒に授業を持っているそうなのだが、内田先生は基本的に映画を生徒に見せてそれについて振付家の方と語り合うというパターンだそうで、それで先日観たのが『燃えよドラゴン』。その話を受けて、僕も改めてDVDを引っ張り出して観てみました。

ここに出てくるブルース・リー(李小龍)の筋肉は本当に美しい逆三角形でほれぼれするが(胸囲108cmに対してウエストは67cmだったと記憶する)、この人の筋肉を見て振付家の方は「ダンサー(プリンシパル、バレエの男のほうの人)の筋肉と似てますね」とおっしゃったそうな。

ダンサーはプリマドンナを抱えたり抱き上げたりするために相応の筋肉を必要とするのだが、それはどう造られるか?最初は赤ちゃん?から始めてだんだん大きな人を抱えていくというようなプロセスをとるそうなのだが、要は、人間を抱き上げるというトレーニングによるそうで、決してバーベルを持ち上げるとかそういうことによるものではないそうだ。

ブルース・リーの筋肉を見ると、非常に細かい腱のようなものが刻まれており、たとえば腕なんかはそれほど太くはない。こういう筋肉のつき方は、人間を”触る”ことによって造られるタイプのものだそうで、ここがダンサーと似ているそうだ。

ブルース・リーでも、ジャッキー・チェン(成龍)でも、「本当に強いのか?」という基本的な問いがなされることがあるけれど、ブルース・リーは割りと「本当に強かった」という話が残っている。彼自身は新しいジークンドーという流派の始祖でもあるが、人と競い合うことで造られた筋肉、という話を聞くと、やはり実践(実戦)を通してあの肉体を造り上げたのではないか、と想像をしてみたくなる。

ちなみに本質的なことではないけれど、僕はブルース・リーの話す英語が割りと好きだ。すごく礼儀正しい?英語を話すのでわかりやすいし、ジークンドーについて語ったインタビューなどは抽象的・思弁的なことを、割合と簡単な単語を用いてうまく説明している。もっとも僕に抽象的・思弁的なことを英語で話す機会はないけれど。

こんにちは

by admin - 7月 16th, 2010

はじめてブログを書きます。よろしくお願いします。